一視同仁に見て下さっている神様だから、陰日なたのない修行によって神様の信用 を頂くこと。
昭和五十四年二月十九日 朝の御理解
信心乃心得
一、天が下に他人という事は無きものぞ。
一、蔭と日なたの心を持つなよ。
先日からビリグイ教会の方から末永先生宛に手紙が参りました。それがどうした間違いか知りませんけど、二枚の便箋に書いてあるのだろうというその一枚目が同封してないのです。二枚目だけしか入ってない。だからその事の詳細というのはよくわかりませんけども、あちらで修行しておりました現地の青年、ゆくゆくは御本部へも、合楽の方へも来たいという願いをもっておった熱心なあちらの修行生でしたけども、どういう訳かわからんけれども、その方が亡くなったという事がしるされてあった。
まあ惜しい事だな、あちらの現地の人で本当に金光教の信心、特に合楽理念に帰依して、あちらのお月次祭などはもう賛者の御用まで出来よったという程しの人でしたけれども、どういう事でかわからんけれども、その方が亡くなったという通知を受けました。もう本当にこのように残念な事はないのですけれども、如何に天が下に他人というは無きものぞと。それはブラジル人もなからなければ日本人もない。神様の御教えを頂いて修行さして頂く。もう神様の目からは一視同仁である。けれども若い命を病気でか自分で命を絶ったのかそこら辺のところは実はわからんのですけれども、亡くなったとこう言う。神様としてもこんなに残念な事はなかろうとこう思うです。
お互いこうやって信心をさして頂いておっても、せっかくこのようなみ教えを頂いてこの様なおかげを頂いて修行させて頂いておるのに、言うならばそれをしだこだにして、只おかげの追求だけしかしないと言うなら、このような残念な事はない。
神様の目から御覧になればあの子もこの子も一視同仁可愛いという事に於ては変わりない。いやむしろ屑の子ほど可愛いと言うのが親心なんだけれども、それをやはり行の上に表しそれを修してゆく、自分の身につけて行くという精進をしないならば、次にありますように「蔭と日なたの心をもつなよ」と。天が下に他人と一視同仁。これなら同じ自分の子供であってもですね、太郎はなかなか真面目だけれども二郎は不真面目と言ったような場合がありますね、そこに言うならおかげが違ってくる。
私は今朝方からお夢を頂いた。「私が酒屋の番頭を止めて帰って酒屋を開こうと言う、少し様子は違いますけれども、その時分のお夢のように思うんです。資本金がないのです。実際はあの資本金が七年間働いてたのを貯めとりましたから大体出来る事になっとったんですけども借金払いの方に当てた。だからもうあとは現金でないと出さんと言うたような仕打ちを受けたわけなんですけれども、もうとにかく前途が真っ暗でした。
親先生にお願いをして善導寺の久保山さん、朝凪の酒屋に相談をしてもらったら岸先生のお母さんが中に入って下さって、まあそんなら出そうという話は決まっておったけれどもいよいよお酒を取りに行ったところが、あげん約束をしとったけれどもやっぱり、あの時分は半年半年でしたからね、相当な金額になるわけです。だからもう一樽ごとにしてくれと。もうそれこそ四斗樽一つども買ったところでどうにもできないのですけども仕方がない、だからその一樽を借りて来て、今度の合楽だよりでしょうか、とにかくこちら田舎ではやっぱ半期半期でしたから掛けが殆どでした。それで田舎で売りよったんでは出けんからと言うので販路を久留米に求める、そして久留米で良い酒をいくらでも安く売るからという条件でよいお得意さんを、あの中に出て来ますね、伊藤さんとか、山本さんとか、熊丸さんとかと、もう私が北京に行った後妹が久留米まで配達しよりましたが、妹で結構商いが出来るようなよいお得意さんで、しかも現金でしかも五升三升とまめて取ってもらえるお得意さんがいくらもありました。
その時分の事が今度でしょうかおかげの泉にでてくるんですけども、そのお夢の中ではね、「私がその一樽、酒屋から持って来ているのです。そして金がないもんだから払わない。そこでもうそれこ悪言雑言もう言われて、悲しい思いやら苦しい思いやらをしておる」という場面でした。実際はそういう事なかったんですけどね。一樽借りてきた、それを田舎では売らずに町で売る、そして現金で売る、そして一樽貯まったらまた一樽仕入れるといったようなところから段々おかげを頂いて、これはある田主丸の酒屋さんでしたけども、半年敷いて出して下さるしかもいい酒でした。もう大変その当時繁盛したわけですけども、私がお夢を頂いたのはもう「その一樽の酒を貸してもらえない。それけん誰々を保証人にするからと言う。あげんとば保証人にしたっちゃ何になるかと言うてもうやかましう言われておるところで目がさめた」 もう目を覚ましてからもう本当にその夢とは少し違うけれども、あんな時代があったがまあようも今日までこうしておかげ頂いたもんだと思って、それこそ涙のこぼれるような思いで休ませて頂いたら、今度はまた次にお夢を頂いた。と言うのはね、「井上太郎先生が、ここは酒屋さんのごたる、そしてその分店を出すと、支店を出すと。それでその向こうの酒屋さん、向こうの大将が言うておられるのが、もう貴方の保証人じゃなくてもお宅の修行生の方逹でいいですよ、二人ばっかり立ててもらえばと言うような事でお酒を借りて井上太郎先生が酒屋を開こう」というお夢を頂いたね、信用ですね。金がなくても信用さえあればね、言うならば傘一本で開ける道である。
ところがどうでしょう。私がお夢の中に私のことで頂いておるように、もし店を出したは、蔵元から酒は出してくれん、現金でなからにゃ出けん。そんな現金があるはずがない。それこそ傘一本から開くのであるからね。
いかに 言うならば丁稚・小僧時代に頑張っとかなければならないか、言うならば、お宅の何々さんならばもう保証人なんかいらんですよという位にです、信用を受けとかなければ出来ることじゃない。
昨日の月次祭でも話しましたようにここの三山君が昨日の研修の時に、本当に僕のようなぐうたらな、と言うてましたがね、ぐうたらな修行さして頂いて今日になったけれども、先日から神様から特別の、やはり特別のお知らせを頂いて、土俵の信心をさせてもらえよと、以来いわば心機一転、今まで出たこともなかったような共励会にも出るようになり、言うならばぐうたらな信心から一変して修行生らしい修行をさして頂こう、この四月から学院にも入らんならん。今までのぐうたらな生き方が本当に惜しまれてたまらない。そこで私が昨日も申しましたように、僕のようなぐうたらな、ま ある人はテレンパレンとこう言う。テレンパレンで一生を過ごせれるはずはないのだけれども、それで過ごそうとするから結局悪い事もしなきゃならない。言うならテレンパレンやらぐうたらな生き方からです一心発起して言うなら土の信心を徹っしさしてもろうて、徳を受け、力を受けたら、世の中にはテレンパレンの人間がぐうたらないい加減な人間がどの位おるかわからないよと。そういう人達が僕の取次によって助かると言う事になるんだから、もうそれこそ尊い体験、この一年間なら一年間のここでのぐうたらであったそれを生かしていくという、そういうとても真面目な者じゃわからないぐうたらな者でなからなきゃ、そういう状態は心の状態はわからない、そういうギリギリのどん底まで落ちておったから、どん底から這い上がろうとする人達を導き救い助ける事が出来るじゃないかと。問題はこれからの問題だよ、信心だよと言うわけでしたね。
今日 私がお夢頂いたのは、その井上太郎先生がここの出社を持つという事になるのでしょうね。人が助かるという事は、取次さして頂く者の神様からの信用による事です。それがここで修行中にぐうたらなテレンパレンな生き方をしておる者がです、もし分店を出したところで誰も信用してくれん。もうあれの為ならばそれこそ、自分が売るのではなくて買う方ならね、ビールの一本位、酒の一杯二杯くらいは飲んどいてからつけといてくれと、言うなら仕方ないという事になるかも知れんけど、自分が売るという事になれば量もいるし、ま布教でいうなら力がいるという事、力無しには出来ない。言うならばその力というものがそのまま神様の御信用。よし何んぼでも出してやるぞというようなおかげを頂かなければならない。そういうお夢を今朝から頂いたんです。
これは井上太郎先生の事だけではありません、三山君だけの事ではありません。お互い信心させて頂く者がです、あの氏子は間違いがないという言うならば信用を受けるために、いよいよもってただ合楽に参りよりますというだけではなくてね、教えに基づいた言うならば合楽理念の行者ともならせて頂く一心発起をさしてもろうてね、あの氏子にならばいくら貸してやってもよいというような神様の御信用を受けることにならなければならんのです。折角合楽にお参りさして頂いておって、それが中途半端に終わったと、そのブラジルの修行生ではないですけれどもね、現地の人が合楽理念のマスターさせてもろうてそして本部の方へ修行にでも来てからそして帰らせて頂いて、本国ブラジルで堂々と布教が出来るような信用の受けられるところまで出来はせんかと。言うならば夢をその修行生に託しておったのだけれどもそれこそ亡くなったと。わけはわからんけれども二枚目だけだからわからんけれども亡くなったというところだけがわかる。早速ここの霊舎に霊様をここに宿って頂いて、最近はその霊の事も拝ませて頂いております。けどこんな残念な事はないでしょう。途中で中座するとか挫折するとか、または折角信心を頂いておってもです、成程天が下に他人はないのですからブラジル人もなからなければ日本人もないね。けども途中で折れたり曲がったり又は要領一つでこの世の中を渡ろうといったような事でテレンパレンの生き方やら、本当にぐうたらなどうにも仕様のないような人間に落ち果ててそれで一生を終わるとするならば、如何に神の氏子と言い、神様は一視同仁に見て下さると言うてもです、結局その氏子の信心と言うか心の内容の中にです、陰日向のない修行をさしてもろうて、信心を身につけてどこへ分店を出しても卸元から何ぼでも出してもらえるような、そこには信用一つでお客さんもついてくる、そこにその店が立ち行くおかげになって来るというようなおげを頂かなければならんのですね。
私共が裏表のある生活、裏もなからなければ表もない。これはどこまでがどうという事は言えませんけれども、ま一般教会で言われますのはね、一生懸命お広前で信心の稽古をさしてもらう人が裏に入ったらガッカリしたと、裏に入っておかげをおとしたと。と言うような教会もあります。私、合楽で素晴らしい事はね、裏に入れば入るほど皆さんがある意味合いで合点して下さるような事があるという事です。
家庭円満でなからなきゃならん、その家庭に不和の無きが元だと信者には教えておって裏の方では家庭の円満どころかいつもその何かこう心の中ででも争いがあっておると言ったような事ではそれこそ裏に入っておかげおとすと言うのはそういう事じゃなかろうかね。結局裏表のないような生き方、そりゃ裏と表と同じと言う事じゃないですよね。
私はここで紋付袴つけとるけれども、裏でもちゃんと紋付袴つけとるという意味じゃないです。それは寝衣姿一つであっても中身が言うならば皆の合点のいく生き方をしておらねば、そういうところから信心を信者がおとしたり間違って行ったりするわけです。これは教会の事だけではありません。お互いの信心の家でも、あの人がおかげ頂かんはずないというような人が家に帰っては全然反対な生き方をしておるというような事を私共は改めて、言うなら陰と日なたのない信心を頂き、神様が言うならば誰も、親先生は特別と言うのじゃなくて一視同仁に見て下さってあるのですからね、その生き方をいよいよ身につけて言うならばテレンパレンではない、ぐうたらではないね、自分ながらね、今日も結構な修行さしてもろうてありがたかったとお礼の言えれるような修行を積み重ねて、初めて神様の御信用、言うならば人の信用いわゆる神徳、人徳を兼ねそなえておかげがいただけるのじゃないでしようかね。どうぞ。